菅原道真とはどんな人なんでしょうか?
天満宮とは、菅原道真(すがわらのみちざね)を祭神とする神社をいうんですね。
では、菅原道真とはどんな人だったのでしょうか?
菅原道真は承和12年(845年)に京の都に生まれました。
菅原氏は代々続く学問の家系で、道真は幼い頃から漢学の教育を受けて育ったそうです。
漢学とは、中国の古典をもとに中国思想や詩文を研究する学問なんですね。
15才で元服(成人)した道真は、文章生(もんじょうしょう)になるために勉学に励んでいたようです。
文章生とは、現在でいう大学生のようなものだそうです。
そして、道真は18歳で試験に合格するんですね。
道真の祖父が20歳で合格し、叔父が23歳で合格したらしいですから、道真は18歳で合格したわけですから、かなりの才能ですよね。
文章生は40人いたようですが、その中の成績優秀者2人のうち、その1人に選ばれるくらいだったようです。
道真は33歳で漢文学、中国史の大学教授のような地位に当たる文章博士(もんじょうはかせ)になりました。
37歳のときに父親が亡くなり、菅原家が経営していた私塾の運営も引き継いだようですね。
また、道真は政治家として宇多天皇に重用されるようになるんです。
そして、右大臣にまで昇進するんです。
この右大臣は、左大臣に就いていた藤原時平(ふじわらのときひら)に次いで偉い役だったんですね。
藤原氏は有力な貴族で、道真はただの学者の家柄だったので、嫉妬する貴族も多かったようです。
そして、藤原時平を中心に道真を政界から追い出そうとする動きが強まったんですね。
その頃、宇多天皇は息子の醍醐天皇の天皇の位を譲っていたんですね。
道真の娘は醍醐天皇の弟である斉世親王(ときよしんのう)に嫁いでいたんです。
藤原時平はその関係を利用して、道真をおとしいれたんです。
藤原時平は醍醐天皇に「道真は自分の義理の息子である斉世親王を天皇の位につけようとしている」と告げ口をしたんです。
ただ、これは全く根拠のないこと、つまり嘘なんですね。
醍醐天皇は道真を大宰府(だざいふ)の役人に任命し、都から遠い九州へ追いやってしまうんです。
道真は大宰府に飛ばされてから2年後に病にかかり、59歳で亡くなるんです。
しかしですね、道真の死後、都では次々と異変が起こるんです。
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天神や天満宮と菅原道真との関係は?
都では疫病がはやり、人々は道真のたたりではないか、と言うようになってきたんです。
そしてですね、藤原時平はわずか39歳の若さで亡くなるんです。
皇太子である保明親王(やすあきらしんのう)は21歳の若さで亡くなるんです。
これらの出来事に醍醐天皇は恐れおののいたんですね。
醍醐天皇は道真を元の右大臣に戻し、大宰府に飛ばすことを命じた文書を燃やし、左遷を取り消したんです。
でもですね、皇太子で藤原時平の孫にあたる慶頼王(よしよりおう)が5歳で亡くなるんですね。
さらにですね、皇族や貴族の死が続き、ついには宮中に雷が落ちるんですね。
この落雷を機に醍醐天皇は健康を害して亡くなってしまうんですね。
そんな中、あるとき都に住むある女のもとに、道真の霊が現れるんですね。
道真の霊は、都にいた頃に好んだ場所である右近の馬場(うこんのうまば)、これは現在の北野ですね、「この場所に祠(ほこら)を建てて、私が立ち寄ることができるようにせよ」と告げたんですね。
しかしですね、その女は身分が低く、祠を建てることはできなかったんですね。
ここからなんです、道真を天神として祀(まつ)ることが始まったんですね。
その後、7歳の子供にも道真の霊が憑りつき、右近の馬場に社(やしろ)を奉(たてまつ)るように告げたんですね。
それで、北野の地に神殿を建てて、道真を天満天神ととして祀ったんですね。
天神とは、人々に災いを与える荒ぶる神の総称をいうんですね。
天満とは、道真の「怒りが天に満ちた」というお告げから由来するんですね。
そして、道真は天満天神として北野天満宮に祀られるようになったんですね。
醍醐天皇は道真の怒りを鎮めるように、大宰府に社殿を造るように命じるんです。
これが現在の太宰府天満宮なんですね。
その後、一条天皇は道真に朝廷で一番偉い役職である太政大臣の位を送るんです。
北野の天満宮に参拝し、太宰府の天満宮でも天皇の命により祭事が行われるようになったんですね。
こんなことから太宰府天満宮は信仰の中心地になったんですね。
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菅原道真が学問の神様である由来とは?
天神信仰が拡大することによって、各地に天満宮が造られるようになるんです。
天満宮や天神のご祭神は道真で、道真を祀った神社は全国に12,000社あるんですね。
日本三大天神は、北野天満宮(京都)、太宰府天満宮(福岡県太宰府市)、防府天満宮(山口県防府市)といわれているんです。
また、関東三大天神は、湯島天満宮(東京都文京区)、亀戸天満宮(東京都江東区)、谷保天満宮(東京都国立市)といわれているんです。
そしてですね、道真が「学問の神様」といわれるようになったのは、江戸時代といわれているんです。
寺子屋が多くできて、庶民に学問が身近になった頃、自然と学問の神様といわれるようになったんですね。
また、天満宮や天神様には「梅の印」、「梅の木」が植えられていますが、その理由は道真が梅が好きだったからといわれているんです。
梅の木を大切にしたり、梅に関する歌を詠んだりしていたからなんですね。
また、天満宮では神様の使いとして牛の銅像が置かれているんです。
これにはいろいろな説があるようです。
道真が丑年生まれであるとか、牛に助けられたことがあるとか、大宰府に行くとき牛に乗っていったなど。
牛と関りがあるのは間違いないようで、神の使いとして牛の像が置かれるようになったみたいですね。
天神や天満宮、菅原道真についていろいろ話しましたが、参考にしてくださいね。